2011年10月28日金曜日

2008.6.14.被災地


 2008年6月14日の午前8時43分ごろ。岩手県南部と宮城県北部を中心とした強い地震が発生した。岩手・宮城内陸地震である。
 この地震により、栗駒山周辺の山林各地で土石流や斜面の崩落が発生するなどし、各地で少なくとも17人が死亡、6人が行方不明となった。

 この大地震災害の被災地に初めて足を踏み入れた。発生から3年以上も経った2011年9月28日のことである。
 岩手・宮城内陸地震での災害の特徴は『山が動いた』という言葉の通り、想像を絶する強い揺れによって山の土砂が大規模に崩落したり、土石流となったこと。もしも、このような地震が仙台の人来田、太白団地や、中山・吉成のような住宅地の直下で起きたら…と想像するだけでもゾッとする。

 下の数枚の写真は、7名が犠牲となった駒の湯の土石流災害現場である。

慰霊碑の前にて。背中の人は、今回お話しと現場の案内をしてくださった、栗駒耕英行政区長の金澤さん。

今も復旧・防災工事が続く現場は、元の風景が、元の地形がどうなっていたのか想像もできない。居合わせたかつての駒の湯温泉を知る人は言葉を失っていた。

写真ではわかりづらいが、横幅おそらく数百メートルに渡って沢へ斜面が崩落している。重機や乗用車の大きさと比較してほしい。下部にあるモコモコッとした緑が、かつて崖の部分にあった木々であるという。

地震から3年の段階でこの状態。流れた土砂は取り除かれ、今はコンクリート製のブロックを積み上げる作業が行われている。工事が終わるまでさらに3年はかかるという。


金澤さんの言葉を引用させていただく。
復興のために心がけていること

  1. 誰かがやってくれるとは思わない。
  2. 他の誰かや、次世代に「付け」を残さない。
  3. 健康に留意して、また働けばよくなるという気持ちを持つ。
  4. 常に前向きの気持ちを持ち、自らの努力を続ける。
  5. 生活の質や環境の質を落とさぬように。
  6. 地域の発展と自らの発展を目指す。

「絶対、山に戻るんだ」
「震災前よりももっと良い地域にしてゆこう」
集団移転もせず、ただ一軒の移住世帯もなく、栗駒耕英地区の人々はこの地で生きて行くことを選んだ。その根底にあるものは、開拓地ならではの心意気があるのだと金澤さんは話してくれた。それは入植時から培われてきた『どうしたら自分たちでやれるか、どうしたら行政に認めてもらえるか』という精神である。
 冬場の積雪は2メートルにもなるという厳しい気象条件、荒涼とした原野。入植間もなくは夢破れこの地を去って行った開拓世帯もたくさんあったという。それでも、自分たちでやれることを考え実行してきてここまで世代をつないできたのが、今を生きる耕英地区の人々なのだ。それ故、なんでもお役所頼み、お上の言う事は絶対、なんていう一般的な宮城県人(日本人もほとんどこれか?)とは対照的な波動を放っている。行政の言う事やることをそのままにしない。積極的に助言・提言を行ってゆく。『なあなあ・まぁまぁ』の関係はひとまずお休みにして、本音で語り合う。こうして、耕英は復興を遂げてきた。
「地域は自分たちが守る」

 「いつまでも『お情けちょうだい』なんて言ってられない」
 3.11後、耕英の人々は、高原ならではの冷涼な気候を活かして育てたダイコンとキャベツでの津波被災地支援を行っている。


余談だが、
私はテレビの無い生活を始めてから もうかれこれ7年ほど経つ。
この大地震の被害はもちろん、新潟中越沖地震やスマトラ島沖地震、福知山線脱線事故などの報道はもっぱらラジオで受信した。それらの映像は、実家に帰省したときや職場の社員食堂に備え付けのテレビでたまたま観たくらいだ。それはそれは驚いた…周囲の人は「ああ、テレビ無いんだものね」。

テレビの短所のひとつが…(それも最悪の短所のひとつが)、繰り返し流される映像のために、視聴者はその事がわかったつもりになりがちな事だろう。人々は、映像を見ただけなのに、実際に体験したと錯覚してしまう。
私も、もし、テレビ断ちする前の自分だったら、この栗駒の被災地をこの目で見に行こうという気も起こらなかったのではないだろうか。テレビからのニュース映像を見て終わっていたのではないだろうか…。

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