2011年10月21日金曜日

原子力…対立のなかで

私は原子核エネルギーの利用は初めから人殺しのための応用物理だと考えている。

私はいかなる目的であっても、いかなる理屈が並べ立てられても、いかなる技術を持ってしても、原子核エネルギーを解放する事は即刻、止めるべきだと思う。原発なんてものは今すぐ止めるべき、ローテク時代の、ポンコツのガラクタだと考える。

田口ランディ氏は、ご自身のブログで、いまの原子力利用についての議論が単なる賛成・反対という対立の構図にはめ込まれる傾向にあることについて書いている。
単なる二対立論で世の中の問題を片づけられるものではないのでは?ランディさんは訴える。
田口ランディ「いま、伝えたいこと」状況のなかの沈黙について


議論が「賛成と反対」に分かれたときは、もう相手を打ち砕くしかありません。数か力で……です。言葉は説得の材料として使われるだけでコミュニケーションの役目を果たさなくなります。お互いを理解しようといる努力は消えてしまいます。自分が正しいと思う人は、他者の意見は「正気の沙汰とは思えない」と感じます。そうなったら、もう話しあいは成立しません……。
意識が変わる、価値観が変わる……というのは「いまの現状をがまんするか、しないか」ではなく、「自分が丸ごと変わってしまう」ことなのですが、そうなったときに私は元の私ではいられなくなります。それは死の体験と等しいほどのものかもしれません。信じていたものが無価値になり、自分の人生の意味すら消えてしまいそうになります。そんな恐ろしく辛いことは、たいがいはしたくないので、誰しもが自分はいまのままで、相手にだけ変われと要望する。それが対立という構図なのです。

相手の考え方が変わる事を期待すること。それが、対立である。
張り合う。相手を打ち負かす。そして、相手の譲歩を勝ち取る。

まるで、どこかの人々がしてきた事と同じではないだろうか。
不平等、収奪、貧困、そして戦争。この世の悪の根源ではないだろうか。

この国で起こっている原子力利用に関する議論は、何者かによって煽動されている、あるパターンにはめられているように見える。私は人々が、何らかのシナリオにウマく乗せられてしまっているような気がしてならない。

ある方向へ向かって突き進む前に、ここで一度立ち止まって考えたいと思う。
人間には智慧があるはずだ。
相手ではなく、自分が変わるのである。
そこから、奇蹟的な力が生まれる。
二千数百年も昔、この地球上で、
次ような事実に気づいた人がいる。

「自我は 存在しない」

自我とは、錯覚である。
「わたし」があるという感覚は、実は錯覚である。妄想・思い込みである。

私はこの教えに出会えて、本当にうれしい。私は幸せ者だ。
前に進む事ができる。


「自我は無い」事の根拠を、スマナサーラ長老の言葉も借りて考えたい。

「わたし」のこの体。この体を構成しているひとつひとつの細胞はこうして生きていく日々で常に死んでは生まれ、入れ替わっているものである。およそ3年もあれば人の体のすべての細胞が入れ替わってしまう。

では、「こころ」はどうか。
人は心変わりするものである。私もそうだし、あなたもそうだ。
私たちは常に新しい事を覚えるし、過去に覚えたことを忘れることもよくある。
この前まで熱心だった事に、急に興味が無くなったり、別な物事に関心が移ったり。
一秒前の「わたし」は、もはや今の「わたし」ではないし、一秒後の「わたし」は、今とは違う「わたし」かも知れない。

はっきり言って、「わたし」なんて感覚は当てにならない、という真実に気づかされる。
「わたし」なんていう枠とか基準、境界線、のようなものは常にゆらゆら変化しているので、言ってしまえば磁力が弱まり狂った方位磁石のようなものである。

では、「わたし」とはいったい何者か?

それに気づくことこそが、私たちの人生をかけ取り組むべき課題である。
すべての答えはそこにある。

そこへ至るまでには、長く暗い時間が必要かもしれない。

意外かもしれないが、私は楽観的だ。
世界はこれからどんどん良くなっていくはずだ。
ただ、その前に、間違いなく一度どん底に落ちると思う。最近の世の中の様子を見ていると、それは間違いない。

0 件のコメント: